あせもと難病

 10年以上前、東京に住んでいる頃です。家で一人でいるとき、みそ汁が急に食べたくなり、冷蔵庫で具材を探していました。そこにエンサイらしき葉物があったのですが、随分と水分が飛んで硬くなっていました。妻が冷蔵庫に入れっぱなしにしたなあ、と思い、もったいない気持ちと半分腹を立てつつ、そのエンサイらしき葉物を使うことにしました。包丁で切りはじめたのですが、これまた随分硬いのです。普通の葉物だったらザクザクと簡単に切れる筈なのに、これは一切れ切るにも大変で、上から体の重みを包丁にあずけてなんとか切れる始末です。どれほど冷蔵庫にほったらかしにされていたのかと腹を立てつつ、何とか小切りにしたのです。そして、出汁に葉物を入れてサッと煮てから味噌を溶いてみそ汁ができました。作っている途中でも、箸に葉物が当たる感覚と鍋から立ち昇る香りからして、ちょっとおかしな葉物だなあと思いつつ、最初のひと口を口にしました。口に入れた途端、苦味とエグミが口に広がりまったく飲める代物ではなかったのです。それでもエンサイがこんな風に変わってしまったのかと相変わらず思っていたのですが、そのうちに妻が帰ってきて妻へみそ汁の話をすると、何とも怪訝な顔で「それは桃の葉よ!!バカッ」と一喝・・・。
 何とも男(わたし)はバカな生き物だとおもいつつ、昔から桃の葉は「汗疹(あせも)に効く」と云われる所以(ゆえん)が口を通してわかったものです。
 苦味の陽性に対してエグミは陰性です。万物陰陽あわせ持ち、陽大なれば陰また大なりの如く、桃の葉は陰陽のエネルギーをともに多くもっているのだなーと口を通して本能に響いてきたのでした。
 これだけの力があるがゆえに汗疹(あせも)という排毒に充分対処しうるのだなあーとおもったのです。実際に陽性の排毒である背中の汗疹、陰性の排毒である胸側の汗疹、両方に桃の葉は効果があります。桃の葉は、特にこの時期の皮膚の痒みの排毒には特効を示します。桃の葉を水に入れて、沸騰したら15分くらい煮出します。その煮出した汁で汗疹や痒い患部を洗うのです。桃の葉がたくさん取れるようならば、沢山煮出して、風呂に入れたらいいでしょう。
 子どもはよく汗疹を作ります。子どもは血液が濃く、肝臓がまだ未熟で、血液をアルカリ化する能力がまだ未発達ですから、汗疹を作って、皮膚から老廃物を排出させているのです。汗疹だけではありません。皮膚疾患全般、大小便や汗で排出しきれない老廃物を肌の表面積を増やして、排毒させてくれているのです。かゆければその分、患部を?きむしりますから、そこから余計に排毒します。
 それと、皮膚疾患が現れる人の多くが、汗腺が未発達です。日本人であれば、全身の汗腺は250万ほどあるようです。それがアトピーの人は半分以下ほどしか働いていないといわれます。中には80万も汗腺が働いていない人もいるようです。汗腺の働きは3才くらいまでに大方決まるといわれるのですが、私の経験ではいくつになってからも発達させることはできます。体に合った日々の食養と手当て、運動を基本に、時に断食を取り入れることで、汗をかけなかった人も、しっかり汗をかけるようになります。
 10年ほど前に、突発性後天性全身性無汗症という病気の青年が来ました。全身の汗腺が働かなくなって、汗をかくことができなくなってしまったのです。汗をかけないわけですから、夏は体中が火照り、常に水を浴びていないといられません。その青年が体に合った食養と手当て、そして断食の実践で、3カ月ほどで汗がかけるようになったのです。当時はまだ難病指定されていませんでしたが、今では患者数が増えて、難病指定されている病気です。そんな病気であっても、陰陽の理を解して、食を変えれば治っていくのです。

食べた物は体のどこへ行くか

 「食べた物は小腸で吸収されて栄養素として全身に運ばれる」と、人間が食べた物は体のどこへ行くかと問われたら、現代生理学ではそのような答えになるでしょう。もちろんその答えが間違っているわけではないのですが、より深く考えると、もっとダイナミックな生理現象が体の中では起こっているようです。
 生物学者の福岡伸一さんが紹介したことで有名になったルドルフ・シェーンハイマー(1898-1941)の動的平衡論は、示唆に富んだヒントを私たちに与えてくれます。
 ルドルフ・シェーンハイマーはラットに食べ物を与える時、食べ物の中のそれぞれの窒素(たんぱく質)に特殊な方法で染色をして、染色された窒素(たんぱく質)がラットの体の中でどのような動きをするかということを調べました。種類の異なるたんぱく質には黄色や緑色、赤色、それぞれ違った色をつけてラットに食べさせました。その結果、それぞれのたんぱく質は体のある部分に一定期間留まり、そしてまた他のたんぱく質と入れ替わるように排出されていったというのです。例えば、肝臓には同じ色のたんぱく質が一定期間留まり、そして、抜けていき、また同じ色のたんぱく質が定着し、また抜けていく、これを繰り返しているといいます。腎臓にはまた違ったたんぱく質が一定期間留まり、抜けていき、膵臓にはまた違ったたんぱく質が同じように入れ替わっているといいます。シェーンハイマーの研究から、ラットは1年もするとすべての細胞が入れ替わるほど細胞レベルでは劇的な変化が起きていたというのです。
 私たちの体も代謝によって常に入れ替わっています。皮膚の細胞は28~42日くらいでターンオーバー(代謝)しているといいます。小腸の上皮細胞は24時間で入れ替わっているようですから、まさに一日一生、毎日新鮮な状態をキープしているのです。骨の細胞も3~5年もするとすべて入れ替わるようです。マクロビオティックでは全身の細胞は7年もすると全て入れ替わると言っていましたが、最新の研究では、全てというのはちょっと大げさで、10年くらいかかる細胞もあれば、20年してもなかなか入れ替わらない細胞もあるようです。とはいえ、私たちの細胞の大半は7年もすると入れ替わっているのです。
 「ゆく河の流れは絶えずして、もとの水にあらず」で始まる鴨長明の方丈記の世界観が、私たちの体の中でも起こっていたのです。フランスにも「変われば変わるほど変わらない」という諺がありますが、これも私たちの体の動的平衡を言ったものでしょう。生命は常に流れの中にあって、その一時の現象が今であるのです。
 マクロビオティックを提唱した桜沢如一は無双原理12の定理という理論を提唱していて、その中のひとつに「万物万象は一時的な安定の陰陽の集合体である」という論理があります。これはまさにルドルフ・シェーンハイマーの動的平衡と同じことなのです。
 動的平衡は、「食が命」を基本とするマクロビオティックをある意味で裏付けるものだと思います。さらに、細かいところでは、それぞれの病気の原因が特定の食べ物の過剰にあるということも示唆しています。例えば、胆のうをX線撮影する時、生卵を飲んで撮影すると胆のうが鮮明になるということは、卵が胆のうへ集中するということであり、卵の過剰摂取は胆のうや胆のうに隣接して密接に関係する肝臓への影響が大きいということも推察できます。実際に、胆のうの病気を発症した人の食歴をみると卵や卵を使った料理をよく食べてきた傾向が強いのです。
 現代人は、多種多様な食べ物を食べています。過去の歴史上でもっとも多種多様な食べ物を食べているのが現代の人々です。そのため、病気の種類も多種多様で、原因不明の難病も数知れません。鴨長明がいうように、私たちの体の細胞も、川の流れのように滞りなく流れていたら、健康であるはずです。流水腐らず、というように、流れに障りがなかったら健康であるのです。私たち日本人の体の流れを滞りなく流すことができる食べ物が、ごはん(おコメ)、みそ汁、漬物(野菜)です。伝統的に何千年と食べられてきた食べ物は、時代の検証を受けています。日本人には和食が、日本人の動的平衡を維持するとても大切な食生活であるのです。

農的感性と食糧危機

 世間一般的な農法を慣行農法といいます。化学肥料と化学農薬を使う農業が慣行農法です。化学肥料の主原料は窒素、リン酸、カリウムです。リン酸はリン鉱石を原料に作られています。リン鉱石は、太古の昔の動物の糞尿が固まったものです。何万年の歳月をかけて鉱石になっているので、リン濃度の高い石になっているのです。鶏糞、豚糞、牛糞などを肥料として活用する有機農法は、これらの糞尿からリン酸や窒素を活用しているのです。
 自然栽培では化学肥料も有機肥料も使わず、土本来のエネルギーを活用しています。土は微生物、植物の腐食、鉱物のまじりあいであるのですが、外から肥料を持ち込まなくても、草が生い茂っています。その草は時期が来れば枯れて、微生物と水と光のお陰でまた土に還って行きます。土は本来、光と水と微生物によって循環し、植物を育むことができるのです。光と水と微生物が土の中で循環的に活性化することで、適量の窒素、リン酸、カリウムが生まれるのです。外から持ち込む必要は本来ないのです。
 ところが、膨大な量を収穫しようと、肥料が過剰になると、過剰な肥料分をエサにする微生物や虫が大量発生して、病気が発現します。植物の病的現象は、過剰な肥料分の解毒反応といえるのです。虫食い野菜は過剰肥料が原因なのです。慣行農法だけでなく、有機農法でも肥料が過剰になってくると、植物に虫がついたり、病気が出てきます。自然栽培でも過去に使用した肥料分が田畑に残っていると、病気が出ることが珍しくありません。植物の病気は土を本来の状態に戻そうとする自然な反応と見ることもできます。自然栽培で3~7年ほどすると、過去の肥料分が分解解毒され、土本来の力で植物が育つようになってきます。何十年、何百年と自然栽培で土作りをしていくと、その土地にあった植物が自然にできてくるのです。
 慣行農法では、窒素、リン酸、カリウムを高濃度で田畑に施しますから、それらのエネルギーばかりになって、その他のミネラルや微生物が育ちにくい土になってしまいます。特に、ドロクロといって、クロルピクリンという消毒剤で畑を消毒すると、多くの微生物が死滅します。消毒された土壌に化学肥料を投入すると、植物は高濃度の肥料を吸い上げ、見た目は大きくなるのですが、ミネラル分がほとんどない、まさに空虚な植物が育つのです。実際に、1950年代の野菜と2000年以降の野菜では、ビタミンやミネラルが1/10以下に減少しています。
 1940~60年代にかけて化学肥料が世界に出回り、食糧の生産量が飛躍的に伸びました。この時期の農業改革を緑の革命といいます。緑の革命によって、人口が急激に増えるのですが、同時に様々な病気が出現することにもなります。オモテ大なればウラもまた大です。
 化学肥料の主原料になっているリン鉱石は有限の資源です。埋蔵量も限られています。リン鉱石の産出国は、中国、米国、モロッコ、ロシアとなどの限られた国にしかないといわれます。政治的、戦略的に出荷量を調整しているという情報もあります。実際のところは不明なのですが、現代の食糧事情は、リン鉱石に左右されているのです。リン鉱石の世界的価格が高騰し、化学肥料も高騰しています。慣行農法の農家は悲鳴をあげているのです。化学肥料の高騰も物価高に拍車をかけています。
 さらに異常気象などの環境異変が加わり、食糧危機はいつ来てもおかしくないというのです。現代の一般的な食糧事情は、慣行農法の大規模農業に支えられています。そのような状況だと、ちょっとした歯車の狂いで、突如として食糧危機が来る可能性もあります。そんな時に私たちは、農的感性を働かせて、土作りをして農作物を育てることができたならば、食糧危機を柔軟的に回避することができるのです。野にある野草を活用することも大切なことです。
 中島みゆきが言うように、自分の船は自分で漕ぐことです。人に任せていてはドコに連れて行かれるかわかりません。食糧危機に対峙するのは、私たちに眠る農的感性を活性化することが大切です。自然栽培や自然農の基本になっているのが、私たちの農的感性です。そして、この農的感性が私たちの原始的な感性になって、生きる土台になっているのです。

田植えの季節

 今年も田植えの季節がやってきました。田んぼに水が入り、水田が少しずつ増えてきます。毎年見慣れた風景ですが、何とも言えない心地よさです。実際にも、心象風景でも、水田は命の源です。
 全国の田園地帯にある小中学校では、昭和30年半ばころまで、田んぼの農繁期に休みを設けていた歴史があります。田植え休み、稲刈り休みを設けて、子どもたちが田んぼの手伝いをするのです。私の父も小学生の頃に、学校が休みなって、田植え、稲刈りを手伝っていたといいます。昭和30年代まで、一家総出でコメ作りに励んでいたのです。昭和30年後半になると、田植え機、稲刈り機などが出現し、コメ作りの機械化が少しずつ普及するようになってきます。現代では、一度に何列も苗を植えられる機械や、刈り取りと脱穀を同時にしてしまうコンバインという機械まであり、大幅な人的省力化を実現しています。
 昔は、刈り取った稲を稲架(はざ)にかけて天日干ししていたものを、現代は乾燥機にかけるのが一般的です。日本人全員が天日干し米を食べることは現代では不可能です。もしそれを実現しようとするならば、かなり多くの人々がコメ作りに関わらないと難しいでしょう。
 農業の機械化は、農作業の重労働から人々を解放して、工業化、商業化、金融化に社会と人を向かわせました。人々はそれを幸福の道と信じて疑わず、ひたむきに走り続けてきました。ところが、幸せの道と思っていたものが、本当だろうか?と考え直さざる得ない状況にあるのが、現代なのかもしれません。便利な世の中ではありますが、病気は多発し、子供が減って、不安と心配の種がつきないのも現代です。「オモテ大なれば、ウラもまた大なり」マクロビオティックを提唱した桜沢如一の言葉ですが、現代はまさにそれです。便利の裏側には、大変なものが潜んでいたのです。
 機械乾燥をしたコメを種にすると、発芽率が落ち、発病率が高まります。機械化は大量生産できるのですが、その種をずっと継承することはできないのです。機械という人工的なエネルギーは、大きな働きがあるのですが、それだけでは命の継承ができません。自然なエネルギーを基本として、人工的なエネルギーは命が継承できるくらいの程度でなくてはならないのでしょう。
 わが家では、手植え、手除草、手刈り、天日干しの稲を種用としています。この種が一粒万倍となって、私たちの命になって、皆さんの命になっています。
 世界のあらゆる文明は、水があり穀物があるところに発生しています。日本を瑞穂の国といいますが、世界の文明の基本は、水と穂(こくもつ)ですから、日本だけでなくあらゆる国は本来、「みずほ」の国であるはずなのです。その中でも特に、日本は水に恵まれ、穀物に恵まれた風光明媚な風土です。
 コメ作りは命を継承していくことですから、教育の根本と言ってもいいでしょう。人間が穀物から離れたら、命が継承されない、そんな事象を至るところで見てきました。日本人がコメを食べなくなったら、腸が本来の働きをせず、遺伝子も活性しないのです。
 田んぼは命の生まれる場所です。田んぼに支えられる虫や動植物も無数にいます。田んぼこそ、自然と人間の最高傑作と言っても言い過ぎではありません。神事の中心もコメ作りから来ています。まもなく始まる大相撲も、原点はコメ作りにあります。
 日本人にとってもっとも大事なコメ作りがこれから本格化する、いい季節になってきました。

共感と競争

 春は卒業や入学の季節でもあります。現代の日本人は、物心ついたときから、春は人生の仕切り直しの季節になってきました。暦(旧暦)の上での春は、太陽暦の一月下旬から二月上旬ですから寒さもあって、まだ強く春を感じることはできません。春爛漫はやはり、桜の咲く三月下旬から四月上旬の卒業と入学の季節です。
 先日、娘の卒業式に参加してきました。桜の開花にはまだちょっと早かったのですが、娘にとっても親にとってもよい仕切り直しになりました。学校生活は数年間と短い時間ですが、人生を駆け出したばかりの子どもたちにとっての数年間は、大人にとっての数年間よりもずっと濃い時間であったと思います。この濃い時間の中で子どもたちは、生きていく中での大事なことを陰に陽に学ぶのです。
 人は本能的に競い合うことが好きです。かけっこや相撲取り、メンコやベーゴマ(古いですが)など、友達どうしで競い合う遊びは競争の原点です。競い合うことはおもしろいものです。むしろ、競い合わない遊びは、特に男にとっては、あまり魅力のないものかもしれません。もちろん、子どもの性質によっては競争を好まない子もいます。人と競争するよりも、自分の世界に没頭していった方がいい、という子もいます。この性質や性格も陰陽です。
 学校生活でもこの競い合いがもちろんあるわけです。徒競走や持久走など、体育では目に見える競争をするわけですが、数学や理科、社会などの一般教科でも点数を競い合って競争をしているのです。部活動においても、多くの部活動では競争が多分にあるのです。一方で、競争とは対極にある共感もまた、学校生活には沢山あります。友達との関わり合いはむしろ、競争よりも共感の方が強いかもしれません。友達どうしの触れ合いで競争が主であったら息苦しいものです。共感があるからこそ一緒にいて安心感が湧くのかもしれません。
 この共感と競争は陰陽の関係にあると、私は思うのです。共感力と競争力をともにバランスよく持つことが人間力に繋がっていくのではないかと思うのです。
 共感力とは、他者の感情を読む力でもあり、相手の立場になって考える力でもあります。自分と他人の境を薄くして、他者に溶け込む力でもありますから、私は陰性の力が共感力ではないかと思うのです。一方で競争力は、相手よりも一歩先に行く力、相手よりも深く、または高い所へ踏み込んでいく力です。時には、他者を蹴落としでも自分が行く力が競争力です。陰性な共感力に対して、競争力は陽性ではないでしょうか。
 人類の歴史を振り返ると、この陰陽相反する二つのエネルギーがあったからこそ、人類は生き延びてきたのです。競争力という陽性なエネルギーで厳しい環境を克服し、共感力という陰性なエネルギーで厳しい環境を助け合って生きてきたのです。
 私の今までの食養生活の大半は、子どもたちとの生活が中心にありました。そこに体質改善を求める人たちが来られて、その人々との生活が私の食養生活の中心になっています。子どもから大人まで、多くの人々をみてきて、人間の本能である共感と競争を調和的に成長していくことこそ、生きる上でとても大切なことだと思うのです。
 潰瘍性大腸炎を抱えた青年が道場に来た時です。最初はその青年と私の二人きりでの生活だったのですが、その後、食養合宿がはじまり、何人もの人が合流しました。その中で同世代の女性も参加していたのです。きれいな女性でした。潰瘍性大腸炎の彼もまんざらではない感じです。私と二人きりでの生活の時には感じられないエネルギーを彼は発するのです。朝、二人だけの時は私が彼を起こすのですが、彼女たちが参加してからは自分で起きてくるのです。女性に触れあったことで、彼の中の競争力が自然治癒力に火をつけたのかもしれません。感動、感謝、感激という感情は、共感力や競争力を高めようとした行動から生まれたものではないかと思います。
 春は人生の仕切り直しによい季節です。人生を振り返って、共感と競争、自分はどちらかに偏ってきてなかったどうかをあらためて考えてみるにもよい季節です。

日本の言葉と歌のチカラ

 1980年代の日本の音楽が世界で人気だといいます。松任谷由実や山下達郎、竹内まりや、松山千春などの歌謡曲が日本語のまま世界中で聴かれているというのです。インターネットの時代ですから、世界中の音楽を聴くことができるのです。80年代の日本の歌謡曲のリズムが、私たちが心地よく感じるリズムであるといいます。1分間に100回程度が80年代の日本の歌謡曲の平均的なリズムで、このリズムは私たちが心地よくウォーキングや軽い運動をするときの心拍数と一緒だというのです。
 さらに、これらの曲を聴いていると、血圧や自律神経が安定してきて、穏やかな気持ちにさせるというのです。以前からクラシック音楽が自律神経の安定によいとされてきましたが、クラシック音楽以上に80年代の日本の歌謡曲は自律神経を安定させるといいますからすごいことです。
 ウクライナとロシアの紛争から世界中で軍備拡張の動きがあります。以前からの紛争の火種が、世界中で勃発してもおかしくないという状況でもあります。そんなきな臭い社会が、世界中で同時進行しているわけです。否が応でも不安と緊張に包まれます。そんな交感神経優位の社会にあって、80年代の日本の音楽が癒しになっているのです。
 リズムだけではありません。日本語そのものも癒される雰囲気があるといいます。世界中の人々の多くが、日本語を理解して聞いているわけではないのですが、リズムだけでなく、日本語の響きそのものに癒しを感じるというのです。ロシア人で日本に長く住んでいるアリシア・フォードさんという女性がいます。アリシアさんは元々、ロシア語と英語を話していたのですが、日本に来て日本語を勉強するうちに自分自身の内面が変わっていくことを感じるようになったといいます。日本語を話していると、心が穏やかになっていくというのです。ロシア語や英語では感じることのできなかった感性が日本語にあるというのです。
 今の日本語は、日本に元々あった大和言葉と中国から伝来した漢の言葉などが融合したものといわれます。大和言葉は漢字のとおり、大きな和の言葉です。言葉そのものに和するチカラがあると、アリシアさんの体験から納得するのです。私たちが日常、なにげなく使う日本語は、知らず知らずのうちに和する心を振りまいているのかもしれません。和する波動を持った日本語を、心地よいリズムで響かせたら、それを聴く人の多くが穏やかになっていくのでしょう。それが今、80年代の日本の歌謡曲が流行する理由ではないかと思うのです。
 そして、この言葉とリズムを生み出した日本の風土というものが、和する心の基礎にあると私は思うのです。文化と文明は、その表現に言葉があって、その基礎に風土があります。「所変われば品変わる」ように、風土が変われば食が変わり、言葉が変わるのです。日本語という心を穏やかにする言葉は、風光明媚で四季に富んだ日本の風土から生まれる食べ物あってこそではないかと思うのです。日本の食を和食というのも、和する食であるからです。
 マクロビオティックを提唱した桜沢如一は生前、世界を日本化してはじめて、世界は平和になるといいました。日本は戦後、米国化(アメリカナイズ)され、世界の多くの国々もアメリカナイズされました。自由と民主主義を標ぼうしながら、物質的には豊かになりました。しかし、一方で体の健康と心の安定は置き去りにされてきました。アメリカナイズされた人々の国々は、経済成長とともに医療費も高騰し、病人大国になっているのです。自由という名の暴力が、私たちの心と体を蝕んでいるのではないかとさえ私は思うのです。桜沢如一のいう日本化というのは、経済的利益を日本に誘導するものではありません。世界の国々がそれぞれの風土にあった繁栄をしていくことを後押しすることです。それぞれの風土に合った栄養学と経済学を確立することが大事なのです。日本の食養でいう身土不二は、そのことを言っているのです。
 世界は新しい境地に進もうとしています。日本の言葉と歌が世界の人々の心に響くのは、世界が日本化していくことを暗示しているのではないかと思うのです。

肝臓の食養生

 現代人の多くは肝臓が悲鳴を上げています。
 肝臓で毒素を消化分解できなくなってくると、肌が黒ずんだり、シミ、そばかす、吹き出物が増えてきます。毛穴が目立つのも肝臓の悲鳴から、心臓に負担のかかっていることを表します。常にイライラしていたり、焦燥感が強く、何かに追い立てられているような感覚で日々過ごすのも肝臓からの悲鳴です。
 マクロビオティックでは玄米菜食が基本ですが、肝臓に問題のある人は玄米の食べ方を注意しなくてはなりません。圧力鍋で炊いた玄米を一日三食食べていると、副食との組み合わせ次第では、さらに肝臓に負荷をかけます。玄米のぬかの部分に脂肪分が豊富ですから、いくら良質な脂肪であっても「過ぎたれば及ばざるに危うし」です。
 肝臓に問題のある人は、玄米に大麦を混ぜて土鍋で炊いたり、玄米に大根を入れて炊くのもよいです。玄米100%のご飯よりも麦入り玄米や大根入り玄米ごはんの方がおいしいようであれば、その方がよいでしょう。お粥にすればさらに肝臓の負担は減ります。
 玄米そのものを「おいしく」感じない人は、分搗き米を主体に食べるのもよいでしょう。分搗き米にも押し麦や丸麦などの大麦を入れてもよいです。めん類を食べるのであれば、日本の伝統的な在来の地粉で作っためん類が一番です。海外のものであれば古代小麦のめん類がよいでしょう。
 さらに肝臓が悲鳴をあげている人は、マクロビオティックの基本食ではなく、野菜を大量に摂る陽性向けの排毒食が合っています。旬の野菜をサラダで食べたり、蒸したり、茹でたり、煮たり、好きな調理法で大量に食べます。野菜スープや野菜ジュースもよいでしょう。飲み物の方が野菜をたくさん摂れるのでお茶代わりに飲むのもよいです。干しシイタケや干しマイタケを煮出したスープも肝臓の解毒にはとても合っています。
 進行した肝臓がんの人がこのキノコのスープと野菜スープを大量に摂ることで、肝臓の炎症が消えて、諸症状が緩和したこともあります。数カ月命が持つかわからない、といわれたのが、もう10年以上になりますが、すっかり元気になってしまったのです。
 三年番茶やハーブティーも口に合うものをたくさん飲んでもよいでしょう。
 マクロビオティックを10年以上続け、B型肝炎のキャリアが消えたという人もいます。一般的にはB型もC型も一度罹ると、発症はしなくてもキャリアは消えない、ということになっています。しかし、実際に消えた人がいるのです。
 無双原理は「変わらないものはない」という原理です。変化の原理です。この世は絶対のない世界です。常に「うつりかわる」世界です。 
 要は、B型肝炎ウィルスが住めない肝臓になればいいのです。肝臓はとても活発な代謝の良い臓器です。食養指導の経験上、肝臓の病気は治りやすい、ということを実感しています。肝炎も肝硬変も肝臓がんも食養で治った人がとても多いのです。
 肝臓の病気のほとんどが動物性食品の摂り過ぎですから、肝臓の食箋は、穀物菜食が一番です。肝炎に関しては特に、一切の動物性食品を摂らないことが大事です。
 動物性食品や添加物食品から作られた細胞が肝臓から消えれば、肝炎ウィルスは肝臓に必要ありません。肝炎ウィルスは肝臓の毒素を浄化しようとして存在してくれているのですから、有り難い存在です。自分の体に合ったマクロビオティックを根気よく続けていれば肝炎のキャリアも消えることを、その方は証明してくれたのです。

春と肝臓

 肝臓には主に三つの働きがあるといわれます。
①胆汁の生産
②養分の貯蔵と流通
③毒素の分解
 食物中の脂肪分はすい臓から分泌される膵液によって消化分解されるのですが、脂肪分は炭水化物やタンパク質などよりも分解されにくく、その分解を補助するのが胆汁です。膵液によって消化分解された脂肪酸を腸内でより吸収しやすい形に変えるのも胆汁の働きです。脂肪分の摂り過ぎが肝臓に負担をかけるというのは、このためです。
 脂肪は植物性脂肪と動物性脂肪がありますが、圧倒的に消化分解が難しいのが動物性脂肪です。さらに動物性脂肪に含まれるホルモン剤や抗生物質などの毒素が肝臓に強烈なダメージを与えます。
 小腸で造られた血液と小腸から吸収された養分は門脈を通って肝臓に送られます。肝臓はそれらの血液と養分を貯蔵したり、必要に応じて全身に巡らせます。さらに肝臓は細胞から出た有害なアンモニアを害の少ない尿素に作り替える働きもしています。尿素はその後、腎臓に運ばれ、ろ過されて尿として排泄されます。肝臓と腎臓は血液をきれいにするうえでもっとも重要な臓器です。血液をきれいに保つうえで肝臓と腎臓はまさに「肝腎かなめ」なのです。
 肝臓に余力のある時は、食物から取り込まれた毒素は肝臓が分解してしまいますが、肝臓の余力が少なくなってくると毒素は肝臓に溜め込まれます。さらに肝臓の余力がなくなってくると毒素を消化分解できなくなってしまいます。「かなめ」である臓器が機能しなくなったら、私たちは日常を平穏に暮らしていけません。
 中国の陰陽五行説では春と肝臓は密接な関係があると説かれています。経験的、直感的に優れた古代の中国の人々が確立した五行説ですが、現代的に解釈しても春と肝臓の関係も強いものだと納得させられます。春は寒い冬が過ぎ、木々が次々と芽吹くように体の細胞も動きが活発になります。肝臓は体の中で一番大きな臓器であり、細胞がぎっしりと詰まった臓器です。心臓、腎臓、すい臓などとも比べても倍以上大きな臓器です。大きな臓器であればあるほど、春になり動きが活発となる細胞の数も増えるというものです。結果的に、腎臓の細胞よりも肝臓の細胞の方が、動きが活発になる量が圧倒的に多いのです。
 肝臓は英語でLiver。生き生きとした活動をつかさどる臓器が肝臓といってもいいでしょう。食肉でもおなじみのレバーも肝臓ですが、血液が多く、赤黒い色をしています。春になって血液循環が良くなれば、血液を大量に貯蔵する肝臓が活性化するのはよく理解できます。
 また、肝臓は肌のキメの細かさとも関係しています。肝臓がきれいな人は肌のキメも細かく、肝臓が悪い人はキメが荒いものです。黄疸になると肌が痒くなるということは現代医学的にもいわれているように、肝臓の状態と肌の状態は密接関係しています。ちなみに肌の色や血色に関しては腎臓との関係が深いのです。肝臓をいたわることは肌をいたわることで、肌をいたわる生活をすることは肝臓をいたわる生活をすることと等しいのです。
 肝臓と肌をいたわるのに、まず大事なことは睡眠です。肌の代謝が一番活発になるのは夜22:00~深夜2:00といわれています。この時間帯は、生命の何万年の営みにより、心臓や筋肉の動きが低下し、肝臓、腎臓、肌の代謝が高まる時間なのです。またこの間は副交感神経が優位となり毛細血管が開き、肌の血液循環が良くなり代謝が活発となる時間でもあります。このため夜22:00~深夜2:00の4時間は睡眠をとり、心臓や筋肉の働きを休め、副交感神経の働きを促すことが肌をきれいに保ち、かつ心身を安定させる生活上のコツなのです。早寝早起きは肝臓にとっても肌にとってもひじょうに大切なことです。

果報は寝て待て

 「果報は寝て待て」といいます。試験の結果などをハラハラドキドキしながら指をくわえて待っている、さらにはそれが高じて気を患って待っているよりも、寝て待っていたほうが体にも心にもよい、という諺です。しかし、さらに広げて考えると、私たちの生命の秩序を表現した言葉でもあると思うのです。
 例えば、病気を患い早く回復したいと願う気持ちは誰にもあるでしょう。回復したいという気持ちがなくては元も子もないわけですが、早く早くという焦り(アセリ)は禁物です。一般的には風邪をひいたぐらいでも病院にいってクスリを処方してもらい飲んでしまう。風邪の症状から一刻も早く逃れたい、ひどくなりたくないという気持ちがそうさせるのでしょうし、社会全体がそれらをよしとしている。しかし本来の生命は治る時がこなければ治らないし、治る状態にならなければ治らない。
 風邪ひとつとってみても、治るということは体の掃除がひと段落しなければ症状は治まらないわけです。症状だけ消したところで掃除が済んでいなければ治ったということにならない。せっかく風邪というありがたい反応で体の毒素を体外へ排出しようと細胞や組織に蓄積した毒素を血液に溶け出させて、セキ、鼻水、熱などの症状を出させてくれているのに、西洋医学のクスリは毒素を細胞や組織に戻して排毒をストップさせてしまう。結果、汚れた体をきれいにするという大きな問題(排毒)を先送りしているに過ぎないのです。
 「果報は寝て待て」といいますが、「排毒(症状)も寝て待て」というのが生命の秩序です。もちろん食っては寝て、食っては寝て腹いっぱいにして寝ることではありません。少食にして、というよりも排毒の時は自然と食べられなくなりますが、食養的な手当て・自然療法を適切に施して寝て待つということが肝腎ですし、排毒症状の緩和は“待つ”以外にありません。どんな病気でも“待つ”ことは一番重要なことなのです。
 将棋の羽生善治さんも将棋の対局で迷った時は、一見意味のないと思われるようなところに「歩」を打って、「待つ」ことが大事だといいます。英文学者でもあった故・外山滋比古さんは文章を書いたら、少し寝かせることが必要だと言います。書き上げてすぐに世に出すのではなく、一晩でもいいから寝かせて、次の日にでももう一度読み返してみることが重要だというのです。一日でも経つと頭が整理されて、客観的な視点が加味されるのです。文章の推敲に「寝待ち」を活用するのです。
 病気だけでなく、人生の様々な場面においても「寝て待つ」ことには意味があると思うのです。
 ところが、現代では先手必勝とばかりに、待つどころではなく、人間の持つ「転ばぬ先の杖」的な心理を利用したことがあまりに多いのに驚かされます。アメリカの有名な女優がガンになるリスクが遺伝的に高いからという理由で、ガンになってもいない臓器を摘出したというニュースは世間を騒がせました。コロナワクチンにおいても、まだ治験中だというのに、コロナ怖いを煽りに煽って、全国民に打とうとしています。コロナも風邪ですから、罹ることは、その人にとっては必要であったのです。そして、コロナも他の風邪と同様に、体が治る状態にならなければ治らないです。コロナにおいても「果報は寝て待て」ではないかと思います。

人生想いどおり

 和道に研修に来た人と一緒にウォーキングをしていた時です。その人は頸椎に腫瘍があって、慢性的な頭痛と首こり、肩こりに悩まされています。症状があるからやむを得ないのですが、私と一緒に歩いていても、事あるごとに「大変ですね」「大変ですね」という言葉が口から出てくるのです。自分の症状もさることながら、私の仕事のことを想ってくれても「大変ですね」というのです。自分のような難病の人のお世話をしてくれて「大変ですね」というのです。自分自身のことや私のことだけではありません。社会で話題になっていることが話しに出てきても、やはり「大変ですね」がよく出てくるのです。自分をみても、周りをみても、その人にとっては「大変」なことなのです。
 その人だけではありません。食養指導を通して多くの人と関わり、強く感じていることがあります。私たちの口から出てくる言葉というのは、血液や細胞が変化したものではないかと思うのです。血液や細胞に「大変」をたくさん抱えていたら、口から出てくる言葉にも「大変」が多分に含まれているのです。人の悪口や、憎まれ口も同じように、言っている本人そのものに悪いものや憎まれるものを抱えているのです。これは多くの人をみてきて感じることです。
 「大変ですね」という人と一緒に話しをしていて、私がこたえた言葉に、その人は驚いています。私の仕事も確かに大変なことも少なくありません。例えば、病気の人に生姜シップを何時間もするのですが、私は汗だくになりながら生姜シップをしますから、ある意味では重労働です。しかし、視点を変えると、生姜シップをさせてもらう私も血流が良くなるのです。先日、合宿の皆さんと温泉に行って、温泉施設にある血流測定器で血流を測ったら、私の血流は20代くらいだというのです。40半ばのおじさんがみんなのために生姜シップをしていたら、血流が良くなって20代の青年と同じくらいの血流になっているのですから、本当にありがたいことです。
 このことを「大変」と見るか、「ありがたい」と見るかで人生は大きく変わってくるのです。「大変だ」「大変だ」と想っていれば、大変になってくるでしょう。「ありがたい」「ありがたい」と想っていたら、ありがたい人生になっていくのです。人生は想いどおりです。
 この想いをどう人生を豊かにする方に持っていくか。これが問題です。
 言葉は血液や細胞が変化したものではないかと言いましたが、言葉は想いが口から出てきたものですから、想いもやはり血液や細胞から生れているのではないかと思うのです。豊かな人生を育む想いが湧出するような食と生活を送ったらいいのです。自分自身の想いが人生を豊かにしてくれるようなそんなものであったならば、その人の食と生活はその人にとって合っているのです。
 しかし、「大変だ」とか「死んでしまいたい」、「消えてなくなってしまいたい」などという想いが出てくるのであれば、想いの元になっている血液と細胞を変えていかなくてはなりません。それにはまず、食と生活を変えることです。食べ方と生き方の革命をすることです。そういう点では、ネガティブな想いが出てくるというのはチャンスでもあるのです。人生の方向転換ができるいいチャンスなのです。
 和道では毎月、食養合宿をしています。これは人生転換のいい時になっています。人は体が変わってくると言葉が変わってきます。言葉が変わるということは、想いが変わってくるのです。人生想いどおりです。