コメ一粒

 小さい頃、明治生まれの曾祖母と一緒にいることが多かったのですが、その曾祖母がしばしば、食事の後のご飯茶碗に一粒でもご飯粒が残っていると「罰が当たる」と言って、キツク注意されたことをよく覚えています。子どもながらにどんな罰が当たるのだろうかと思っていました。それが食養指導をやってきて、多くの人をみさせていただくなかで、コメ一粒の罰というものがどんなものなのか、わかるようになってきたのです。
 私の道場(和道)では毎月、断食合宿をしていますが、その合間に泊まり込みの食養個別指導をしています。個別指導に来られる人たちは、合宿についていけない人がほとんどですから、比較的病気の重い人が多いのです。歩くのがままならい人、付き添いの人がいないと動けない人も多く来られます。寝たきり完全介護の方は移動が難しいですから、今のところ和道にはご縁はないのですが、国が難病指定している病気をいくつも抱えていたり、病名もつかない難病奇病の人も来られます。
 これらの人たちをみていて共通するのが、食事の後のご飯茶碗をみると、コメ一粒どころでなく、沢山の食べ残しがあるのです。手指の動きがわるくて食べられない、という人もいるのですが、ほとんどの人が注意をすれば全部食べられるようになりますから、食べ残しが普段の習慣になってしまっているのです。子どもの病気で親や祖父母が付き添いで来られる方もいますが、その親や祖父母も食べ残しが習慣化している人も多いのです。病気の本人だけでなく、その親や祖父母にも食べ残しが多いのです。無意識のうちに食べ残し、平気で捨ててしまっているのです。
 そのような家庭で育ってくると、コメ一粒までキレイに食べるという習慣の方がむしろ奇異に感じられると言っている人もいました。
 コメ一粒まで大事にするという習慣のない人たちや、その子孫に難病・奇病が多いという傾向があるのに気づいてから、私はいろいろと考えました。その結論のひとつが、コメ一粒まで大事にできない人たちは、「本当の空腹」を知らないのです。それほどお腹が空かずとも、時間が来たら食べる、という感じなのです。飢えを知らないのです。食べ物のありがたさを知らないのです。
 オートファジー(自食細胞)理論では、細胞が飢えると古くなった自分の細胞の一部を食べて、新しいキレイな細胞に作り変えるといいます。コメ一粒まで大事にできない人たちはこのオートファジーの力が弱いと思うのです。だから、古くなった細胞が積み重なって、難病奇病を引き起こしていたのではないかと思うのです。
 昔の人はオートファジー理論は知らずとも、経験的、直感的に「コメ一粒」を大事にすることで子々孫々の健康を願っていたのではないでしょうか。
 一事が万事といいますが、コメ一粒を大事にすることは、命そのものを大事にすることに繋がると思うのです。大和言葉ではコメは込命(コメ)、命が凝縮して込められている状態をさします。コメは命そのものなのです。その命を軽視し、ないがしろにしていると、病気というものが与えられて、気づきを促しているのではないかと思うのです。
 病気は気づきです。生き方転換の気づきが病気だと思います。コメ一粒の罰というのは、罰は気づきであったのです。