体力と精神力

 ある時、大森英桜を知る人から一本の電話があった。
 「大森先生の精神力はすごかった。日本のガンジー、現代のガンジーという風だったね」という。私もその言葉に妙に納得し、大森先生の精神力にひととき想いを馳せた。
 電話越しに言われた精神力について、私は電話を切った後も頭から離れず、「精神力とは一体何なのか?」を考えた。
 精神は肉体や物質の対語であるが、肉体の力が体力であるのに対して精神の力は知力といえるのか。
 知力も精神力のひとつではあるが、すべてではないような氣がする。知識があることと精神が研ぎ澄まされていることは違う。精神というものは、もっともっと大きく不変なチカラを想起させる。
 私たちには知識の有無にかかわらず意志の力がある。思い描いたことを実現する実行力を伴った意志。意志の力は知識よりも精神に近づいているような氣がする。意志こそ精神の大きな発現であるような氣がするが、精神はもっともっと大きく広いものを含んでいるのではないか。
 オリンピックの花形競技に100m走がある。100mを如何に速く走ることができるかを競う。まさに肉体の極限を競う代表的な競技である。一方、100m走と並ぶ花形競技に42.195kmを如何に速く走り切るかを競うマラソンがある。長距離走の極限がマラソンであり、短距離走の極限が100m走である。
 これらの競技を見ていると、マラソン選手と100m走選手の体格の違いに大きな対比があり、おもしろい。スリムで締まった体つきのマラソン選手に対して筋肉隆々で大きな体をした100m走選手。持久力を競うマラソンに対して瞬発力を競う100m走。前者が陰で後者が陽という見方もできる。
 マラソン選手と100m走選手を比べれば陰陽となるが、マラソンよりも倍以上長い100kmを競う選手はマラソン選手よりもずっと陰性でなくてはならないのではないかと思う。100kmよりももっと長い距離、そんな競技はないかもしれないが、何万キロを走ったり歩いたりする競技があれば、その選手はもっともっと陰性でなくてはならないだろう。
 時間がかかればかかるだけ、その時間を持久する力こそが陰性の力である。早く走ったり歩いたりすることから、気の長くなるような道のりをゆっくりと歩むことはさらに陰性力が増さなければ続けることはできない。肉体の陽性に対して精神の陰性である。100mを如何に速く走ることは陽性の肉体の発現であり、何年も何十年もいや何百年も何千年もひとつのことをコツコツと続けてゆくことは陰性の精神の発現ではないだろうか。
 肉体を鍛えるには走ったり、重いものを持ったり、筋肉や骨に負荷をかけると肉体は強くなる。
 一方、心を鍛えるには物理的に陽性な刺激だけでなく精神的に陰性な環境に身を置くことが大事のようだ。
 ひとは閑に耐えることこそ辛く、難しいといわれる。冷、苦、煩、閑に耐えることは辛く悲しいことである。冷、苦、煩、閑は心身から見るとひじょうに陰性な状態である。この陰性な環境こそが陰性な精神を研ぎ澄ませるのだろう。肉体は陽性な負荷によって筋肉細胞が大きくなってゆくのに対して、精神は冷・苦・煩・閑の陰性な負荷によって、心の軸を一点に集中させることができる。
 肉体の陽と精神の陰が調和してはじめてヒトとなる。心身の陰陽が調和すれば、陰性な持続力と陽性な行動力が湧き起こって、思い描いたことが実現されてゆく。心身の陰陽の調和は、食物の陰陽調和を基本としている。陰陽さまざまな力は「血から」生まれている。そして、私たちの血液は食物から生まれる。陰陽が調和した食物こそが、心身の調和をもたらす。

一体全体

 「ひとりでいるとおかしくなりそうです」
 若い恋人同士の会話ではなく、まもなく古希を迎える男性から、こんな電話が時々かかってくる。
 骨粗しょう症から、腰椎骨折、大腿骨骨折、体の主な骨が折れているわけだから、生活もままならない。動くのもやっと。身よりなく、東京のアパートでひとりひっそり暮らしている。
 食養指導30年、多くの人に寄り添ってきて思うのは、人の幸せというのは、全体性の獲得にあるのではないか。
 人の幸せをぐるりと見渡すと、人と人、人と集団、人とモノ、それらの結合に喜びがある。結婚、入学、就職、収穫、収入など、喜びの多くが結び合うことにある。陰陽でみれば陽性なことに喜びがある。一方、離婚、退学、リストラ、不作、借金など、うまく結び合わず離れていく、陰性なハタラキに悲しみと嘆き伴うことが多い。結び合うことが陽性で離ればなれになることが陰性である。
 そしてまた、人生をぐるりと見渡すと、どちらか一方だけしか経験しないという人はいない。多くの人がみな、陰陽両方の経験を、だいたい同じくらいしているものだ。むしろ、陰陽両方を経験してこそ、人間として豊かになっていき、人間力が高まる。喜怒哀楽もまた陰陽である。
 一人の人間の健康も、社会や組織としての健康も、みな同じである。一つで全体を体現しているかどうか。一人の人間は手足の隅々まで血液がしっかり流れているか。組織や団体は、一人ひとりが活性化しているかどうか。一体が全体を獲得しているかどうか。
 ひとりで生きていても孤独でない人は、多くはないが存在する。そんな人をみていると、一人であっても全体性を獲得している。
 ひとりでいると気が狂いそうになる男性も、全体性を獲得したくてそのような感情が出てくるのだ。私たちの欲求や感情というものは命の全体性の獲得のために発動されている。この全体性というものが、中庸ではないかと思う。
 私たちは本来、存在そのものが中庸である。
 命が生まれたということは、陰陽両方をエネルギーが結び合わなくてはならない。不妊の相談を受けていると、陰に偏っても陽に偏っても妊娠しないことがよくわかる。出産だってそう。陰のハタラキと陽のハタラキがなければ、無事なお産にならない。
 一体全体、私たちはそこに向かって生きているような氣がする。
 10月25・26日、マクロビオティックわの会主催で、国際交流会が開催された。収穫の秋に行われた国際交流会では多くの収穫があった。それは、世界のマクロビオティックの一体全体性に大きく近づいた!
 マクロビオティックという言葉そのものが一体全体という中庸をあらわす言葉だが、その実現に大きな一歩を踏み出した。
 マクロビオティックは世界の伝統的な食と生活が基本にある。そこに、環境の変化、関係性の変化に対応した柔軟的な生き方がマクロビオティックである。世界各地に住む人々が、触れ合い、交流することで生まれるエネルギーはまさに一体全体、陰陽を大きく孕んだ中庸を体現していた。
 それを実現させたのは、わの会の実行委員の一人ひとりの陰陽が調和していたからだと、あらためて思った。すばらしいハタラキだった。陰に陽に氣が巡っていた。
 人間や組織の離合集散は陰陽の一面だが、それを越えて、一体全体・中庸がそこにはあった。国際交流をへて、命の全体性・中庸性を感じる素晴らしい空間であり時間となった。空間と時間も陰陽であるから、空間と時間の交わる間を「いま(間)」というが、その間も絶妙であった。
 この共感と協調の「いま(間)」を創り出したのは、穀物を中心としたマクロビオティックの食生活ではないかと思う。洋の東西では、東の米に対して西は麦であるが、西洋においてもさまざまな理由で米を食べる機会は増えている。現代ではグルテンフリーが大きな起爆剤になっているが、元を辿ると、桜沢如一や久司道夫のマクロビオティックの普及が基盤になっている。
 来日したマクロビオティック実践者の多くはコメをよく食べている。それは顔をみればわかる。私たちは食べ物のお化けだから、コメをよく食べていると、西洋人であっても本来の東洋人のようになってくる。
 さらに、コメとムギは同じイネ科(禾本科)で遺伝子の共通性も実はものすごく多い。コメ文化とムギ文化はそれぞれ特異性も多いが、共通性も多い。このイネ科の穀物を主とする人たちは、平和で調和のとれた生き方ができる。禾を口にしている人々だ。
 マクロビオティックの平和活動は、ひとことで言えば「穀物を主に食べる」に尽きる(しかし、過去に肉食をたくさんしてきた人たちは、その分解に野菜や香辛料、場合によると果物を、穀物よりもたくさん摂る必要のあるひとも多い)。私たちは穀物の種を食べるわけだが、種は一粒全体、根、茎、葉、花、そしてまた種と、すべての要素が含蓄されている。
 全体性そのものである穀物を食べていたら、私たちは自他の区別のない、自他一体、一体全体の生き方ができるのではないか。
 食養の日々の実践は小さな一歩だが、そのコツコツとした歩みは大きな一歩に繋がっていく。それもまた一体が全体に繋がることである。
 「ひとりでいるとおかしくなりそう」な人は、自然との繋がりを取り戻すことである。それは、食からであり、人からであり、生活からである。